丹下倶楽部

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オレは予想家

普段は、ネットから文章を検索してみるなんて、ほぼ92%くらいはない。

でも、今日。

ある原稿を書くために、何気に著者名を間違えないよう、その人の名前を探っていたら

(丹下倶楽部は、ほぼお金もとっていないし、校正なしに、赤字があっても、

そのままほったらかしの原稿を載せている)、

ドタバタしながらも、下記の原稿に行き当たってしまった。

 

これはシンボリルドルフの頃、有馬記念。

あさだてつやサンの、雑誌“優駿”の観戦記です。

 

「勝負ごとはひとつのフォーム」

今日は“優駿”のド素人記者として来たので、

専門家から入れ知恵をされてはまずいかな、という気がする。

どうしたって伊藤さんのチェックが気になって、素人の判断がうまれにくい。

けれども、普から、私はこの伊藤友康さんの予想が好きだった。

親しい遊び仲間だったからでもあるが、信頼もしていた。

この人は、妙な勘やひらめきを使って、ウルトラCを狙うということをしない。

一見、おとなしい予想のように見えるが、その分だけ勝負に立ち向かう基本的なフォームができている。

競馬の場合、基本的なフォームとは何かといっても、一言ではむずかしい。

データであり、馬の出来に対する自分の眼でもあり、レースの展開推理でもあろう。

ただ、要するに、数字、乃至は眼に映じた現実を認識していって、そのことの足し算だと思う。

勝負事はなんでもそうだけれど、実際は、レースというものは、

人智のおよばない部分が必ず加わってしまう。

したがって、人智のおよぶ範囲では、百パーセント当てることはむずかしい。

で、大概の人は、氷山の水面下の部分を勘で探ろうとする。

結果を含めて、レースというものが百だとすると、

セオリーで明確になっている部分は五十ぐらいのところであろう。

あとの五十は暗黒部分である。けれども自分だけでなく、

他の観客も五十の暗黒部分があるとすれば、それはお互いさまの話であって、ゼロにも等しい部分だ。

本筋のばくち打ちは、だから開発された五十で戦かう。

その前に、五十を五十一に、さらに五十二にすることを考える。

他人が五十のセオリーでやっているときに、五十一、五十二のセオリーを駆使できれば、

長い眼で見て、その一つ二つのリードが勝因になるわけである。

けれどももう一つ大切なことは、自分が武器として持っている五十幾つのセオリーを、

完全に使えることができるか、という点だ。

ばくち打ちの鍛練はここに集中するのである。けっして勘を鍛えるということではない。

勘は、わるいより良い方がいいけれど、勘に頼ってセオリーをおろそかにするのでは、かえって危険だ。

アマチュアならば、勘がわるくなればやめてしまえばいいけれど、プロはそうはいかない。

したがって持続を旨とするプロの予想は、セオリー主義でなければならない。

勘と反射神経は、よくごっちゃにされるけれど、本来はちがうものなのである。

反射神経というのは、セオリーを少しはずれる例外にいかに即応できるか、という能力だ。

バレーボールをみてごらんなさい。彼我の打ち合うボールのコースは、原則としてセオリーにはまっている。

非科学的なコースには飛ばない。しかし実際は、セオリーどおりではなくて、

そこから少しはずれた例外が無数に生まれてくる。

大まかにいえば大筋に沿っていながら、廻転の具合やコースが少し狂ってくるのだ。

そこを捕えるのが鍛練で、これを反射神経というのである。

伊藤友康さんは、マージャンでもポーカーでもルーレットでも、

何をやっても態度が同じで、セオリーを忠実に生かすことに全力を傾むける人だ。

もう一人、故人になったが、所貞夫さんもそうだった。このお二人は面白い遊び相手だったのだが。

伊藤さんは、最近、競馬の貯金通帳を公表して、好調な結果を示しているというが、さもあらん。

つまり、セオリーでとれる百のうち五十を、確実にとっていくという構えなのであろう。

わからない部分の多いレースは買わなければいいのであるから。

※四十をすぎたころから、競馬予想家のひとりに、

やっとなれたかもしれないと思っていたが、たぶん少しは合格点。

 

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