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「パラオ競馬ってホント?の巻」

 今日、両国から浅草まで、春のうららの隅田川沿いを散策しました。

 川面には桜の花びらが、まるで墨流しのような模様を描いていました。

 日本って幸せですね。

 みなさん、ご無沙汰しました。

 栗岩です。

 この1ヶ月、通信制大学の卒業課題のため、ゼミ仲間と南洋のパラオ諸島に調査旅行に行っていました。

 かの地は、第一次、第二次世界大戦のときには、日本海軍の要地となっていました。

 ですから、そこには「南洋神社」という祠まであるのです。

 また、国旗は「空色の地に、黄色の丸」という、日の丸とは色だけが異なるデザインです。

 それだけ、親日的な国であるのです。

 最近では、アントニオ猪木さんが、サンゴ礁の養殖技術を成功させて、地球環境汚染の撲滅を推進させているそうです。

 さて、私たちの調査は民俗学ですので、ひたすら島民から昔話を聞きだすことだけでした。

 たとえば、島に古くからあったミクロネシア民謡が、1900年代前半に日本人が来てからは、日本的なメロディに変化していったそうです。

 楽譜はありません。

 口や耳だけで伝承させていくので、だんだんとブレていくのでしょう。

 

 また、「定置網」の漁法を伝えたのは軍人さんでした。

 それまで島民は自分たちが食べる分だけ獲れば十分だったのですが、戦争によって、日本人だけはない外国人が増えてしまい、一度に大量に、しかも、安定供給しなければならなくなったからです。

 そんな調査をしているとき、ひとりの長老に出会いました。

 その長老は71歳になるレジーニ爺さんといって、戦時中、日本人が競馬をやっていたことを教えてくれました。

 いえ、正確に言うと「競豚」と書いて、「ケイトン」と読みます。

 日本軍人は、戦争の緊張感から逃れるために、余暇を利用するのが上手かったそうです。

 当時6〜7歳のレジーニ爺さんは、日本の歌はもちろん、カルタやベーゴマなどを教えてもらったといいます。

 その遊びのバラエティは、後に占領する米国軍の比ではなかったそうです。

 「あいつらは、ポーカーばかりだったよ」と笑っていました。

 遊びのひとつとして、日本軍人は「競馬」を考えた。

 しかし、南国の島ですから競走馬を飼うことは困難ですし、競馬場を作るほどの平らな土地も技術もありません。

 そこで、軍が食用に飼っているブタを競走馬の代わりにしたというわけです。

 各部隊ごとに与えられているブタを1頭ずつ出走させ(近隣の島に派遣された部隊も合わせて14部隊はあった)、1か月に1回、部隊長会議の日に開催されます。

 そこで「勝ったブタを持つ部隊」に、「最下位に負けたブタ」を与える。

 というのが、大きなルール。

 他は各人が、タバコを賭けたり、大きな声では言えませんが、ナニをする女性を選ぶ権利を賭けたり、まぁ、他愛ない賭け事を楽しんでいたそうです。

 その軍人のひとりが、国営放送のアナウンサーだった。

 今のNHKのアナウンサーです。

 当時はラヂオですね。

 もちろん、競馬実況の経験はないけど、1936年には「前畑がんばれ!」で有名なベルリン五輪のサブアナウンサーとして同行していた。

 ですから、スポーツアナウンサーではあるのです。

 さすがに、プロ。

 レジーニ爺さんの話しを聞いてみましょう。

 「……競豚を観るよりも、実況を聞くほうがおもしろかった。わめいたり、泣いたり、絶叫したり、一人二役で解説者を演じてみたり、あの人は、しゃべることに関しては神さまみたいな兄さんだったよ。

  ……そうかい? アナウンサーだったのか。道理で、上手いと思ったよ。

 各部隊から1頭、出走させるだろ。あの人は、……確かマツさんと呼ばれていたな。そのマツさんったら、勝手に名前を付けて実況するんだよ。そう、もちろん、日本的な名前でね。フジヤマ、ジングウ、ヒカルゲンジ、サクラ、ウタマロ、ヤジキタ……なんて覚えているよ。観客は男ばかりだろ、チンチンなんて豚もいて、『……チンチン、一気の差し切り! チンチンがハマりました!』なんて絶叫すると、負けた部隊から『どこにハマッんだ?』なんて野次が飛んでね、ボクみたいな子供でも大笑いさ。

 いちばん強かったのは、確か第3部隊にいたワカタカって豚だった。

 あの豚は連戦連勝。

 第3部隊の連中は、だから、いつも腹一杯食べていたはずだよ。

 ……もっとも、実際の戦争では、あの部隊がいちばん最初に全滅してしまったんだがね。

 それにしても、ワカタカは強かったなぁ。

 みんなで、エンジンでも仕掛けているのでは、なんて疑ったほどだった」

 なるほど、強いはずです。

 ワカタカといえば、昭和7年の第1回ダービー馬なのですから。

 きっと「マツさん」はそれを知っていたのでしょうね。

 記録班の人が「競豚新聞」なんてのも作って刷っていたそうです。

 あの日、あの南の島で競馬を思い出していた人々がいたという事実。

 レジーニ爺さんの笑顔を見ながら、私は、戦火を交えながらも、そんな余興に楽しんでいた軍人さんを偲んでいました。

 

 カーカーカー。

 今も昔も、西も東も、ギャンブル好き人間はみんな同じという気がします。

 うれしくなって、私は帰国後すぐに中山競馬場に行きました(4月1日)。

 ダービー卿CTは、パドックからピカレスクコートを抜擢。

 押さえでしたが、コイウタを拾って、久しぶりのマンシュー美酒に酔いました。

 

 

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