オグリキャップが逝っちゃった、の丹下の巻
タケミカヅチが死に、オグリキャップが逝った夜も、飲んだくれていた。
オグリキャップが風を捲いて、府中のニュージーランドTを勝ち、競馬ブームが巻き起こると、JRAの売り上げと同じ比率で、スポーツ紙や競馬専門紙や雑誌媒体も、ハイセイコーブーム以来(それ以上?)の潤いをみせた。
もはや伝統と老舗の看板だけが売りの、瀕死状態の専門紙ホースニュース馬社も、オグリのおかげで蘇ることができ、休刊まで20近く生き延びることもできた。
オグリの登場とともに、ワタシ以来十数年振りに、新卒の社員も3〜5人と入ってきた。
団塊の世代二世の、イキのいい子供たち。人は宝、会社にも新しい風が吹いた。
井崎シューゴローおじさんという、頼もしい大将を御旗に、ワタシも彼らも、紙面造りで遊び競馬で遊び、5〜10年近くの開放感あふれる時が流れた。
しかし、会社はその利益を、設備投資ではなく、ホテル買収などの不動産投資やら何やらにあて、世の中の流れと同調するかのように、バブルの崩壊とともに会社も沈没。
会社にも自分にも未来図を描けず、オグリ世代の優秀な人材も、一番の働きどころであり、まだ人生のやり直しが利く30半ばを前に、一人欠け二人去り、そして誰もいなくなってしまった。
井崎おじさんはハイセイコーブームの申し子。鈴木淑子サンはミスターシービーで、ワタシはシンボリルドルフ(というか、正確にはビゼンニシキだが)。
そして、オグリキャップという名前を目にすると、日向くさい、若い彼らの姿を思い出す。
オグリキャップは、オグリ少女ともいうべき、大量の女子を競馬場にも運んできた。
「オグリが好きだと言う彼女と、オグリの姿を競馬場で追ったとき、その瞳には僕ではなくオグリの姿が躍動していた。その時、この恋が、成就しない恋であることを、ふと思った」と、栗岩太郎クンがポツリ。
オグリは無敵だった。無敵のオグリに、いつもヤキモチを焼いていた栗岩太郎も、最後の有馬記念では何故か涙した。
さようなら、オグリキャップ。
「アカシアの雨が止むとき」を、西田佐知子・ちあきなおみバージョンの二つでどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=28xYY2zBOr0