丹下倶楽部

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「タケミカヅチが逝っちゃった、の巻」

 ふだん忙しいときは電話には出ず、こちらから電話をかけるようにしているのだが、この土日は「たまたま」ヒマだったので、丹下からかかってきた電話を取ってあげたのだ。

 「ねえねえ、一緒に福島に行こうよ」

 なんて、ガキじゃあるまいし、一人で新幹線に乗るのが、そんなに怖いのか。それより、話すことがあるだろう。

 タケミカヅチが逝ったのである。

 「そうだよなあ、死んじゃったなあ」と、一応は深刻ぶってはいたものの、タケミカヅチが去年のダービー卿CTを勝ったとき、一口馬主であるNさんに、さんざんご馳走になったことを忘れたのか。そういう私も、その程度の感慨しかないのだが。

 しかし、Nさんは、きっと嘆き悲しんでいるはずだ。

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 というのも、死への悲しみは、自分との距離感に比例するといわれるからである。親兄弟という、もっとも近い存在はもちろんだが、年に数度しか会わない人よりは、ふだんから一緒に遊んだり仕事をしたりしている人のほうが悲しい。同じ猫でも、飼い猫の死と野良猫の死では、悲しみの大きさが異なる。

 大きさにも比例するだろう。身体が大きい人は、動物もそうだが、頑丈そうに見えるだけに、死にはほど遠い存在に感じてしまう。しかし、小さいと、何となく弱々しそうな感じだから、その死をすんなり受け入れられるのだ。アリが死んでも悲しくないが、なぜか、ゾウの死は悲しいものである。

 また、なぜか、大きいほうが、目が穏やかで優しそうだ。小さいのは、目が鋭く攻撃的か、逆に脅えているか、そんな印象がある。生存競争を生き抜くための、これが動物の本能なのだろう。そうだとしても、そこに親近感の違いを感じるのも事実だ。つまり、大きくて頑丈そうで優しそうな人や動物の死は、より悲しい。

 名前もあるだろう。豚の生産者にこんな話を聞いたことがある。たくさん飼育している豚を商品として売るのが仕事だが、その1頭に名前をつけてしまうと、飼い豚のように思えて、それだけは売る気持ちになれないというのだ。その気持ちはわかる。以前、自宅の柱に的を描いて、ダーツの矢を投げて遊んでいたが、その柱に「ツトム君」という名前をつけた日から、それができなくなってしまった。何か、ツトム君を傷つける気がして。つまり、名前をつけることは、そこに人格を持たせることになるのだ。

 Nさんは、タケミカヅチの一口馬主であり、いつも現状を気にしていた。馬は大きくて目が優しい。タケミカヅチという名前によって、一般名詞の「馬」ではなくなり、固有名詞として人格を持つことになった。

 だから、Nさんはきっと、嘆き悲しんでいるはずなのだ。

 ……目の前にある「小鰺の南蛮漬け」は、さっきスーパーで買ってきたばかりで、豆鰺というくらい小さい魚で、もちろん名前もついていない。誰にも悲しまれずに死んだのである。ここで悲しむことができれば、私も立派な人間か、いい役者になれるのになあ。

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