「キリストが飛ぶ!?の巻」
無性に「春木屋」のラーメンが食べたくなって荻窪まで足を伸ばした夕方、「街かど聖歌隊」とでも呼べばいいのか、駅前で賛美歌を歌っている団体がいた。
暮れは「社会鍋」が現れるし、キリスト教の奉仕活動が活発になる時季なのだろう。
賛美歌112番「諸人こぞりて」を聞いた。
「♪諸人こぞりて、迎えまつれ。久しく待ちにし、主は来ませり主は来ませり、主は、主は来ませり」。
先週の中山では、最終レースのピカレスクコート=キングルーキーの、ガッチガチの馬連600円を1ヶ当てたのみで、大幅マイナス。
高倉の健さんではないが、
「天は我を見捨てたか」
と自暴自棄になっていた。
それを引きずった1週間だったので、この歌詞は身にしみる。
金に目がくらんだちっぽけな羊であったことを反省しなければいけない。
そうなのだ。
競馬は、かのキリスト教国家で誕生したのだった。
「One of 諸人」となって、「こぞれ」ば、「主」は来てくれるのである。
「平地競走の目的は、偉大さの追求にある。ハンディキャップ・レースとか、ギャンブルでの大もうけとか、三着を繰り返す馬とか、そういう要素も競馬の世界には必要だが、だがそれらは競馬の世界の周辺部に位置しているだけで、けっして中心で息づいているわけではない。競馬の世界の中心に横たわるもの、それは偉大さである」
(ローラ・トンプソン著『神よ、アレックスよ、我に奇跡を!』)
今週は、馬券を買うことなどせず、観衆とともに主の恵みをいただき、競馬の偉大さを満喫することにしよう。
さすれば、必ずや、この哀れな羊は救済されるはずだ。
イギリスのある宗教学者は、
「サラブレッドとは、神の子を追い求める作業である。それはすなわち、イエス・キリストの降臨を待つ民衆の祈りなのだ」
と言っている。
「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、(中略)ポアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。
ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、(中略)マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、(中略)エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。
このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」
つまり、この長々と続く『聖書』の「マタイによる福音書」を引用して、「血統」の真理を解いているわけだ。
まさに「サラブレッド」とは、このような配合の歴史を経て、「救世主」を創り出すことを具現化させた営みであったと。
カーカーカー。
今年の有馬記念は、クリスマスイブ。
もしかしたら、あのディープインパクトこそ、イエス・キリストの生まれ変わりかも知れない。
アーメン。
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