「荒木町と競馬の関係の巻」
新橋や柳橋ほどの華やかさではなかったが、かつての四谷・荒木町は小ぢんまりとした花街で、文人や政治家がお忍びで通っていたという。
今でも、その名残があり、元芸者さんが営業する小料理屋などが軒を並べている。
今、その一郭に「柳庵(りゅうあん)」という日本料理屋さんがある。二階は「燕座(つばめざ)」という、長唄の演奏を聞かせてくれる粋なバーラウンジだ。
一人で行くには、ボクはまだ青い。
でも、そこのオーナーとは深夜の酒場で顔を合わせる仲である。
先日、興味深いことを聞いた。
「柳庵」を建てる前は、「若松」という料亭だったというのだ。
その名前を聞いて、編集者をしていた頃、牧太郎さん(毎日新聞編集委員・『スポニチ』で「おけら街道トキの声」連載中)にいただいた原稿を思い出した。
「若松」のお嬢さんは、大映の女優・若松和子(昭和11年生)。
この街で店を張る元芸者Nさんに聞くと、「たしか和子さんに妹がいて、紺野ユカという大映の女優だったはずよ」とのこと。
姉妹そろって女優になるのだから、要するに、荒木町の美人姉妹だったはずだ。
その和子さんは、駆け落ち同然に所帯を持った。
お相手の男性は、なんと競馬の予想家だった。
その予想家について、牧さんの記事を引用しよう。
「仮にMさんと呼ぼう。
『神様』と言われる大川慶次郎さんのライバルと目された人、と言えば、『彼のことか』と気づくかもしれない。(中略) それがどうしたことだろうか。
ここ数年、にがみ走った風貌がテレビから消え、スポーツ紙からもM氏の署名記事が、姿を消してしまった。
予想屋家業から足を洗ったか、はたまた、お亡くなりになったという縁起でもない噂も聞こえてくるが、気になったのは、彼がたいへんなインテリであった点である。
えてしてインテリの予想屋は、社会的責任に目覚めた時、予想業に悩み、スランプに陥り、人によっては自殺までしかねない。
Mさんは、テレビ中継の寸前、大量の安定剤を飲む。
そのくらい神経質な彼は、故郷の沖縄で死んだ、という情報が有力である」(『競馬遊侠伝』小学館文庫)
このMさんは、宮城昌康さんである。
ボクはまったく顔も知らないのだが、当時は「穴の宮城」として名を馳せていたそうだ。
その宮城さんと、若松和子の間にできた娘さんが、中舘英二騎手の奥さん。
JRAの元職員だったそうで、その関係で知り合ったらしい。
ボクが夜な夜な遊ぶ荒木町と競馬が結びついたのは、そこはかとなくうれしい。
ただ、ボクが元芸者Nさんに聞いたのは、和子さんの夫は宮城さんではなく、
「あら? 永田雅一の息子さんと結婚されたんじゃなかったかしら」。
Nさんの記憶ちがいもあるかも知れない。
でも、少なくとも、姉妹が大映の女優だったのだから、大映の社長である永田雅一(通称ラッパ)に世話になったことは事実だろう。
永田ラッパは、ご存知の通り、トキノミノルの馬主としても有名だ。
そして、永田の勝負服は「緑地に黒三本輪」だった。
今は、丹下がブログ協力しているグリーンファームの勝負服である。
グリーンファームの依頼に、遺族が快諾してくれたので使用しているのだそうだ。
カーカーカー。
荒木町ってのは、著名人がお忍びで来ていたそうなので、もっと面白い話が出てくるかもしれない。
よし、今日もヘロヘロに酔って取材をしてこようっと。