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「漱石と明治競馬の巻」

 『三四郎』を読了。

 久しぶりに読んだけど、新鮮でした。

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 「(隣の男が大学の先生の似顔絵を描いていた)画はうまく出来ているが、そばに、ひさかたの雲井の空のほととぎす、と書いてあるのは、何の事だか判じかねた」

 こういうナンセンスなセンス、好きです。

 それはさておき、競馬の話が出てきたのには驚いた。

 三四郎の友人、佐々木与次郎が他人から預かった金を馬券ですってしまったというトホホなくだりがあるのだ。

 この小説は、明治41年9月〜12月まで『朝日新聞』に連載された。

 その当時、若者が競馬にはまるなんてことがあったのだろうか。

 明治天皇の

「馬匹改良の役所を設置せよ」

なるご下問が発せられたのが、明治37年。

 資金を集めるため、その最良の方法として競馬の施行が選ばれたのだが、中心人物として白羽の矢が、安田伊左衛門に立てられた(「安田記念」は、彼の功労に対して創設)。

 安田は明治39年に「東京競馬会」を設立させ、東京の池上競馬場で日本人による最初の馬券発売が行われた。

 けっこうな売り上げだったそうで、翌40年には目黒競馬場がオープンする。

 『三四郎』の舞台は本郷だから、漱石は目黒競馬を想定して書いたのだろうし、本人もイギリス留学で競馬を知っていたはずだから、勝負もしただろう。

 しかし、

 「与次郎が、他人からの預かり金で、馬券を買って、負けた」

という文脈は、ポイントである。

 せっかく盛り上がっている競馬のイメージを落としかねないのだ。

 何故なのか

 

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<競馬イラスト  by Wikipedia>

 

 盛り上がりと並行して、馬券に熱中するあまり破産するファンがいたり、施行側の不手際が目立ったり(配当金の計算が間違ったりした)、八百長が頻発したりしたことも、事実だった。

 たとえば、明治40年の目黒競馬での出来事。

  「キキョウが出場した第六レースでスタートのミスからいったん走り始めたレースが中止・やりなおしとなり、このとき出足のよいスタートを切った本命のキンカザンや対抗馬のホクエンは力を消耗して、やりなおしのレースで実力を発揮できずにキキョウが穴馬として勝利し、本命や対抗馬の馬券を買っていた観衆の不満がいっきょに高まった」(『明治馬券始末』紀伊国屋書店)

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 勝ったキキョウの馬主が、目黒競馬最大の実力者S氏。

 S氏は、出走馬の組み合わせ、すなわち「番組表」の作成に介入する立場である競馬主催者の地位にあり、自分の有利な番組編成をしていたのではないか、との疑惑を持たれた。

 そりゃ、そうだろう。

 このレースだけでなく、この日の国産馬レース賞金の過半を独占したそうなのだから。 

 そんなこんなで、世論は「競馬排斥論」に傾いていく。

 実は、この論陣を張っていたのが、

 『東京朝日新聞』 だったのだ。

 同紙は、翌明治41年1月8日、

「その社論を馬券競馬反対に統一した宣言ともいうべき長文の論説をかかげるに到った」(前掲書)。

 この延長線上が、同41年10月5日の「馬券禁止令」の施行である(大正12年まで、馬券のない時代がつづく)。

 その風潮のさなかに、『三四郎』は連載された。

 東京・大阪の『朝日新聞』で。

 漱石自身が競馬をどう思っていたかは知らないが、朝日の社員である以上、擁護する立場をとれなかったのは明白である。

 だから、あの文脈は、与次郎の能天気な性格を巧妙に使って、社論を推し進めるためのエピソードだったのではないだろうか。

 

 なんて、思ったわけです。

 まぁ、漱石も世渡り上手だったんですね。

 

 

 カーカーカー。

  今日は、ずいぶん真面目に書いちゃったよ。

  丹下ちゃん今回は、ギャラをくださいよね

 

 

 

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