丹下倶楽部

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「08年事件始め、の巻」

 暮れに放送された「A1ニュースステージ」の特番を見ていただいた方はビックリしただろうが、藤田伸二騎手が出演してくれたのだ。

 収録当日、私なんぞ、初めて会うのだから、「何かひとつ、喜ばしネタでも」と思って、シルクジャスティスの京都大賞典の話題を仕込んでいった。

 97年10月5日。

 当時、鶴留師が「この馬は直線で後ろから来た馬に差されたことがない」ともコメントしていたダンスパートナーを、さらに後ろからインを突いて追い込んできた。

 そのときの藤田騎手の形相というか、勝負に賭ける意気込みというか。負けん気の強いジョッキーだな、と記憶していたからだ。

 名刺を渡して、ひと呼吸。

 「あの、じつはシルクジャスティスの……」と言おうとした瞬間、「台本、書くのも大変でしょうね」と交わされてしまい、「あ、ハイ。……よろしくお願いします」と応えただけで、私と彼との会話は終わったのでした。

 さて、年明けて、1月2日。

 丹下が腹痛(と言えば聞こえはいいが、要するに下痢ピーだろう)で、トイレと布団を行ったり来たりしながら箱根駅伝を観戦するという、じつにお気楽極楽な日本人の正月風景に染まっているとき、こちらは「金杯」の資料作り。

 その晩のニュースを見て、ビックリした。「旧モーガン邸が、ほぼ全焼した」というではないか。

 

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 なんでも、放火の可能性があるそうだ。

 モーガンさんは、1920年(大正9年)、東京駅前の丸ビルを設計するために技師として46歳で来日し、他にも「日本郵船ビル」などに携わった。

 そのあたりは、紹介記事としてニュースや新聞に書かれていたが、じつは、日本競馬にも関わった人物である。

 日本の洋式競馬の発祥は、1860年代の横浜。

 居留していた外国人が始めた。

 現在の中華街の周りや、港の見える丘公園(ここは、平野愛子が昭和22年に歌ってヒットした『港が見える丘』という曲に因んで命名された。私のカラオケ十八番)の近くなど、何箇所かで洋式競馬が行われていた。

 1866年(慶応2年)、ときの幕府は、それらを統一する形で、根岸競馬場を造成する。

 イギリス駐屯軍の将校が設計し、地元の村民がかき集められて工事を行った。

 1周1764m、幅28・8mの馬場。

 当時のイラストを見ると、右回り。

 初期の根岸競馬は、日本や中国の馬が中心。

 明治初めに活躍したタイフーン号は、いまは絶滅した南部馬だったそうだ。

 外国人中心の主催から、のちには日本の皇室や財政界の有力者がやってきて、さながら社交場のような雰囲気で行われていた。

 日本人ではじめて馬主になったのは、西郷隆盛の弟・従道(つぐみち)。

 彼は、騎手としても活躍した。

 1923年(大正13年)、関東大震災により、根岸競馬場のコースには、馬ではなく亀裂が走ってしまう。

 スタンドも壊れてしまう。

 この復興のため、スタンド建築の設計を依頼されたのが、来日後、日本人女性と結婚して横浜に住んでいたモーガンさんというわけだ。

 新スタンドの1等館、2等館を合わせて、総工費55億円。それまでの木造建築に替わり、鉄骨・鉄筋コンクリートとなり、当時としては目を見張る近代建築であった。

 根岸競馬は、太平洋戦争勃発のため、1947年(昭和17年)の秋開催が最後となった。

 古色蒼然となってはいるが、モーガンさん設計の1等館スタンドは、現在でも根岸競馬の記念碑的存在として遺されている。

 そんなモーガンさんの邸宅がほぼ全焼。

 08年最初の競馬事件となってしまった。

 

 カーカーカー。

 丹下は、中山金杯を、△アドマイヤフジ=◎エアシェイディで的中。

 京都金杯を、△エイシンデピュティ=◎アドマイヤオーラで的中。

 今ごろは、中山近辺で呵呵大笑といった大騒ぎぶりだろうが、払戻金を少しでも、モーガン邸修復のために募金したらどうか。

 募金口座は、「ゆうちょ銀行  00280-1-76191」(口座名=旧モーガン邸を守る会)。

 「用紙に『募金』と明記してください」とのことである。

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