「オシムニケーション、の巻」
先日、近所の高校生に「相変わらず、元気にしているか」と声をかけてやったら、ちょっとした間があって、こう応えてきた。
「『元気であること』がそんなに大切なことでしょうか。たまに『元気でないこと』があるからこそ、人間は成長をするのです。 ……ボクはまだ、成長できないでいます」
要するに「相変わらず元気」であるということを、彼は回りくどく言ったのであるが、私が「何をワケ分からんこと、言ってんだよ」と返すと、ニヤリと笑って教えてくれた。
いま、都内の中高生のあいだで、「オシムニケーション」が流行っているのだという。
これは、サッカーのイビチャ・オシム元日本代表監督のように、「語録っぽく語るコミュニケーション」である。
オシム元監督は、ご存知のように、特徴のある物言いで知られている。
たとえば、チームに故障者が続いたときには、こう放った。
「野ウサギがライオンから逃れるとき、肉離れを起こしますか? 練習が足りないのです」
もちろん、自国語で語ったものを日本語訳しているのであるが、この「日本語訳っぽく会話する」というのが、ミソなのだそうだ。
ガキどもが新しいムーブメントを興すと、たいてい、学校やPTAは苦虫を噛みつぶしたような顔をするものだが、あに図らんや、この「オシムニケーション」に限っては、先生も親たちも諸手を上げて喜んでいる。
このような文体によって、これまでの若者言葉や汚い言葉遣いがなくなること。じっくり考えて語るので、思考が深くなり、語彙が増え、批評眼が養われること。感情的に語らないので、自らを客観視でき、普遍化した言葉にできること。……など、メリットばかりが書かれてある調査資料を見せてもらった。落ち着いた人間になるのだとも書いてある。皮肉屋になるというデメリットもあると思うが、それはさておき。
若者が、こういう物言いをすることになれば、普段から公の前で語ることの多い政治家をはじめ、スポーツ選手、タレント、評論家、キャスター……にも、それなりの言葉を求めるようになるはずだ。
おそらく、競馬の世界にだって、それは求められることになるだろう。
「勝った、負けた」「ヘグりやがった、ファインプレー!」などと、感情をあらわにする言葉では、バカにされるだけだ。
丹下だって、調子に乗って「丹下で〜す! バッカで〜す!」なんてことばかり言っていると、本当にバカ扱いされてしまうのだ。
自虐的に自分を紹介するのなら、たとえば、「稲穂が美しいのは、夕日に照らされて金色に輝いているからではありません。実れば実るほど、大地に寄り添うように頭を垂れている謙虚さに、それを感じるのです。競馬ファンの皆さん、こんにちは、バカの丹下です」とでも言わなければいけない。そうすることで、丹下は謙虚を演じているのだ、と理解できるからである。
もちろん、競馬の解説もそのように語らなければいけない。
アフォリズムを駆使し、哲学的な印象を与え、しかも、簡単な言葉でそれを表現する。
よく、重馬場で勝った馬を評して「蹄に水掻きがついているような走りっぷりでしたね」というが、これなんぞは、なかなかいい線をいっていると思う。
「この馬が52キロの斤量というのは、裸同然ですね」もいいと思う。
レトリックの使い手が、今後、幅を利かせることになるのだろう。
カーカーカー。
いま、彼らは単純に遊び感覚で「オシムニケーション」を楽しんでいるのだろうが、それが当たり前になってくる時代は、かならず来る。
そうなると、勉強しなければならないから、読書量も増えよう。
ならば、私のような三流ライターにも、少しは仕事が回ってくるかも知れないのだ。