「てんびん座のAB型ジョッキーの巻 第7回」
まず、丹下の悩みにお答えしよう。
「高松宮杯」が「記念」に変更されたのは、ちょうど1998年からである。
なぜ、改称されたのか。
それは、95年にさかのぼる。
95年9月、競輪・競艇の「宮杯」をめぐり、「主催自治体などが、高松宮家と三笠宮家に、多額の謝礼金を渡していた」という問題が発覚したのだ。
宮内庁が、これを「皇室経済法」に対する違法と認めた。
そして、総額1億4475万円を返還することになった。
このいきさつから、1997年、宮家より「高松宮杯という名称を使わないように」との申し入れがあった。
競馬には直接的な関係はなかったのだが、公営競技として足並みをそろえるために、翌98年から「記念」になったのである。チャンチャン。
というわけで、1998年の今週は、5月25日(月)〜31日(日)でした。
●週半ばには目立ったニュースはありませんでした。
●31日(日)、2人の騎手が、この日をもって引退しました。
東信二騎手は、東京3Rのステートリーシチー(13着)が最後の騎乗。
通算512勝(重賞21勝)。
「体力的にはまだまだやれると思っているが、乗り馬も少なくなってきたし、そろそろ潮時と思った」とコメントしました。
思い出は、キョウエイグリーンで勝った安田記念と、87年の皐月賞・菊花賞を勝ったサクラスターオーだそうです。
「その後は厩舎に属さず、サークルの外から競馬を見ていくようだ」と記事にありますが、そのとおり、シンジマンとしての活躍を果たしました。
手品はうまいし、唄もうまいし、マルチな才能を持っている東さんです。
篠原茂騎手の最後の騎乗は、4月25日の新潟・4歳未出走戦のダイヤパシフィック(7着)でした。
通算105勝(重賞0勝)。
引退後は、平井雄二厩舎の調教助手に転向されたそうです。
東騎手の思い出にあるサクラスターオーは、この平井厩舎の管理馬でした。
ちなみに、9月29日生まれの篠原さんは、ボクと同じ、てんびん座のAB型。
きっと素晴らしい人でしょう。
●同じく31日(日)、中京3Rでムスメに騎乗した大崎昭一騎手が落馬してしまいました。
脳震トウで一時は意識を失うほどだったそうですが、名古屋の藤田保健衛生大学病院で精密検査を行った結果、脳などに異常はありませんでした。
しかし、その後、その後遺症から慢性硬膜下血腫を発症し、頭部の手術を受け、復帰に向けてリハビリを行っていましたが、残念ながら翌99年に引退をしました。
通算970勝。
1000勝まで、あと30勝だっただけに、惜しまれました。
近年は、競馬予想会社の広告で拝見しますが、7〜8年くらい前かな、一度、新宿御苑の小料理屋でご一緒する機会がありました。
勝負の世界にいたとは、とても思えないほど穏やかな方で、楽しい宴だったことを思い出します。
今春(2008年)、調教師試験に合格した大竹正博技術調教師(大竹姓は妻の姓)は、大崎さんの息子さんです。
かつて、「泣きの昭ちゃん」と言われた大崎さんですが、いまは、笑顔で過ごされていることでしょう。
●31日(日)、シャンティー競馬場で行われた仏ダービーは、キャッシュ・アスムッセン騎手のドリームウェルが優勝しました。
その1ヶ月後には、愛ダービーも制しました。
翌99年のサンクルー大賞典では、凱旋門賞を狙って遠征したエルコンドルパサーと対戦しています。
最初のコーナーで、同馬がエルコンドルパサーの右後脚に乗りかかり、外傷を負わせたそうです。
それでも、エルコンドルパサーが勝ち、同馬は3着でした。
ドリームウェルは、父・サドラーズウェルズ×母父アレッジドという血統。
2000年、日本に輸入され、社台スタリオンステーションでケイ養されました。
01年の初年度産駒にアドマイヤモナークがいます。
他の産駒はワンダードリーム、アサクサムスタング、シルクエフォートなどです。
01〜02年は、シャトル種牡馬としてニュージーランドへ出稼ぎに行き、2004年に再びフランスに戻りました。
ちなみに、ニュージーランドには、丹下が在籍していた「ホースニュース馬」社が持っていたホテルがありました。
丹下も社費で行ったことがあるそうですが、マオリ語でナンパしたのでしょうか。
●31日(日)、「ハギノ」の冠を持つオーナーとして親しまれた、日隈広吉さんがお亡くなりになりました。
1980年桜花賞馬ハギノトップレディ、83年宝塚記念馬ハギノカムイオーなどで、GIを制していました。
ハギノトップレディは、「華麗なる一族」です。
1956年にイギリスから輸入されたマイリーが持込馬として産んだキューピット→ミスマルミチ→イットー→ハギノトップレディ→ダイイチルビー→ダイイチシガーという名牝の流れに属するのです。
今年(2008年)のエイムアットビップもその一族です。
ハギノカムイオーは、史上初めて1億円を超す高値のついた馬でした。
父・テスコボーイ(それ以前に、トウショウボーイやキタノカチドキなどを輩出)×母・イットー(上記の一族)。
それまでは、1976年の同じテスコボーイ産駒の5000万円が最高でしたが、79年の市場で、この馬は、お台が8000万円。
それを、日隈さんの代理人・伊藤修司調教師が、最終的に1億8500万円で競り落としたのでした。
その日のトップニュースにもなったそうです。
パチンコホールを経営していたそうですが、かなり儲かっていたのでしょう。
同馬は、82年1月の新馬戦を京都で勝つと、2戦目には3月の中山・桜草特別に出走。
このとき、第8Rに組まれていましたが、テレビ中継に合わせるために、第9Rに変更するほど注目されていたそうです。
この話は、以前、山田乗男に教えてもらいました。
ボクはこのとき、ピチピチの19歳。
大学受験も終わり、どこにも合格せず、2浪目を覚悟した春でした。
丹下は、23歳。
慶応大学に除籍KOされ、きっとプーでもしていたのでしょう。
●さて、この週のメーンは「第59回オークス」でした。
1番人気ファレノプシス(武豊)、2番人気エアデジャヴー(横山典)、3番人気マックスキャンドゥ(柴田善臣)。
松永幹夫のロンドンブリッジが逃げてタテ長の展開。
その中団から差し切ったのは、7番人気、的場均のエリモエクセルでした。
2着エアデジャヴーで、馬連2300円ちょうど也。
カーカーカー。
さて、このオークス。
当時39歳の丹下の、◎○▲は何だったのでしょう。
そして、的中させたのでしょうか。
その答えは、丹下が次回のブログでご報告いたします。
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